●;「憲法論議」(2)

●;私の発言はしどろもどろ。何を言いたいのか自分でもわからなくなった。聴衆からもそんな気配が。言いたかったのは「天皇の命令」のことである。戦前の「国体」という観念がはびこり、国民が皆「天皇の赤子」になったのは日が浅い。インテリだった学徒動員兵の手記(『きけわだつみの声』)などでは国体のために死ぬぜという記述がある。その時の彼らの「国体」に繋がるものは決して現人神・天皇のために死ぬのではなく、父母弟妹、それに繋がる国の山河に殉じると涙ぐましい。
一個の特権的個人があり、その身体の延長として国家があるという発想=日本のボディポリティクスは、たぶん明治天皇以降でしかも日露戦争の時からではないか…これは歴史的な実証を確かめた訳ではない。そして明治天皇もまた<特権的な存在>として演出された存在である。尊崇の対象としてそこにあるかのように現出させた最大のメディアは「ご真影」だったが、それほど日本という国にとって日露戦争は殺すか殺されるかのバクチだった。眼前の兵を「殺す」のにはバネを要す。特別な観念がである。上官の命令だけでは兵はひるむ。「国体」という身体国家観とはそんなものだと言いたかった。国体信仰というイデオロギーは、それを体現する(とされる)人格への信仰でもある。そんなことを言いたかった。そして、「改憲論議」で天皇制をどう扱うのかに私の興味があるといいたかった。政治的な興味ではないが。
●;スターリン主義下で粛清された革命派幹部でも、「スターリン万歳」と叫んで銃殺されることを引き受けた。一方で2・26事件の磯部朝一の「獄中手記」が迫るのは、昭和天皇に対する呪詛がみなぎっていた。磯部には「国体観念」はあっても「赤子」という観念は捨てていた。