●村中孝次(3)

●;村中孝次が遺した(と言われる)「九千万よりお前らが重たくて困る」とうことばの出所を知りたくて、大晦日の日、屋根裏部屋を探していたら筑摩書房版の『超国家主義』(64刊)を見つける。解説の橋川文三に惹かれて買ったものか。埃にまみれて湿っぽく手が汚れた。村中の「丹心録」、磯部の「獄中記」も抄録されていた。村中の「丹心録」は特に感ずるところなし。ひたむきでまじめな青年という印象。
ただ、阿修羅のごとき憤怒の人・磯部の「獄中記」に、
《先生(北一輝のこと)と西田氏、菅波、大岸両氏などは、どんな事があってもしばらく日本に生きてもらいたい》の箇所あり。大岸頼好は、磯部が後事を託したかったリーダーの一人だったようだ。
●;末松太平『私の昭和史』は見つけられなかった。どこかに隠れているのだろう。だが、末松の『軍隊と戦後のなかで』(大和書房・80年刊)という雑文集を見つける。「回想・大岸頼好」という一文で大岸が文学青年だったことを知る。大岸は「マルクス転じて本居宣長となった」と末松に語ったという。
幼年学校→士官学校という秀才たち(そういえば大杉栄も幼年学校出身)が、時代の(大正末〜昭和初年代)の世界史的な影響下にあったとはいえる。末松の世代(1905年生)で「マルキシズムに傾倒しない者はよほどのぼんくらか、世渡り上手の小利口ものと目安をつけられていた」(末松)という。さもありなん。後年、第一次全学連時代(50年代)、安保闘争時代(60年前後)、全共闘時代(60年末〜)でも参加の度合い、影響された世界情勢は別にして、そういったムーブメントに否定であれ肯定であれ動じなかったとか、後付のロジックでなんだかんだと批判がましいことをいう者を信用しない。小さい自己をひたすら守っていたどうしょうもない連中である。疑うことをしないままぼんやりと時をやりすごした精神が怠惰であった人々である。