●;編集と営業

●;村上一郎氏に「編集とは何か」と断言めいたことを聞かされた。その強い記憶が残っている。氏が紀伊國屋書店出版部の嘱託か何かを勤めていた頃だ。出版部は市ヶ谷と四谷の線路沿いにあった。しもた屋を改造した安普請の小さなビルの一室で氏は手持ちぶさただったのか、「ちょっと外へ行こう」と誘われた。氏が土手の草叢にいきなり腰を下ろしたので、あわてて横に並んだ。そこは氏の馴染んだ<居場所>のようだった。水の流れを感じさせない澱んだ内壕を見やりながらポツリと言った。「編集とは、文字通り<情報>を集めて纏めることだよ」。
●;編集という仕事は、垂直的。<深さ>を追求する井戸掘りのような仕事ならば、営業は水平的・関係的で<広さ>を耕す農民のような仕事だ。いずれの仕事も思考の停止=行為の中断、つまり日和見は許されない。
そして、
《編集とは<男>、営業は<女>である》
《営業とは<関係>である》…「あいつとあいつは出来てる」とか「関係しとるな」とか「♂と♀」の性的な暗号にもよく使われるように、ここでいう「関係」とは多義的である。
《営業は<水平>に動く。世界の果てまでも、だ。》…売る/拡げるという点でもっとも資本主義的な行為。
《営業は、周縁部分の掘り起こし、本の<中心>はコンテンツ、著者の原稿》…<中心>的なものが<吐く>=表出するものであるならば、営業とはいかに周縁を掬い取るかだ。
《営業とは組織化のこと》…中沢新一の新刊タイトル『対称性人類学』(講談社)をもじって言えば、営業とは<対称性>を組織化することだ。編集とは著者(=コンテンツの保有者)が持つ<非対称性>を読者という消費者に圧倒的な落差感を与えるものとして「纏める」行為。著者の<非対称的世界>の受取人たる読者は、そのことばを獲得する-身体化することで<対称性的世界>を感得したと思う。聖書も仏典も、ベストセラーもまたそうである。ただ、前者と後者の違いは時代を超えていくことばを創り出したか、時代の気分に添い寝していることばの違いである。