●;忘年会を開く

●;いくつかの忘年会に誘われる。「なんてパーティが多い業界だろう」という声もある。そうかもしれないし、他の業界もたいして違わないと思っている。すべてに顔を出す時間もないし、ビンボーボー根性もあってカネの出し惜しみもする。「あんたが声掛けてくれよ」という頼みがあっても適当な理由をつけてサボってしまう(そんなに暇じゃねぇんだ)。ただ、何年か前に辞めた会社の連中とは会いたくてプロモートすることにした。
パーティ自体は組織ではないけれど、つかの間の共同性がかもし出される。絶対に<中心>が必要である。<中心>に座るべきものは、オーラを持った人物であって小さな権力志向の人間が座った場合には、楽しくもなんともない。彼の秩序構成力とそのパーティに期待した人々の構成感のズレである。「期待して来たのに」という愚痴が生まれるのは、大概こういうケースだ。
オーラとは、その人物が備え持つ<公平性>につきる。ボス根性の人がオーラを持っているのではない。それは威圧感。選んだ中心人物は(至極、当たり前だが)ナガサワキヨシ氏である。氏が出席するかどうかで忘年会の雰囲気が決定的になる。
●;12月の予定を氏に聞いたのだが、返信が遅かったせいもあり、会場の押さえにかかるのに時間が経ってしまった。何年か前の忘年会は神田駅近くの店だったが、神田ということもあって「カンダハルの落城記念かね」とか、全員が男ということもあって「<いい女>はいないね」などと言う。そういう冗句がことのほかうれしい。彼との距離が縮まったことを受感する。いっしょに仕事をしていた時には、敬意を持っていたけれども「なにがしかの敬意」という前置詞がつく類のものであって、氏をよくわかっていたわけではない。むしろ氏も私も別の職場に散ってからのほうが敬愛感が募った。編集者としてものすごい優秀な<頭脳の人>というよりは、彼の<一流なところ>に惹かれた。それは<ディテールの人>であり、<ホスピタリティの人>ということ。つまり<公平さ>である。<100%の公平さ>という意味ではない。彼にも好みもある。恣意性の度合いが少ない精神の持ち主、オーバーに言えば「精神の貴族」というような内的な縛り=規律を持った人といえる。彼が当日のスターだ。