●;「掲示板」のログから考える

●;時たま書き込みをする「掲示板」がある。その存在は主宰者から教えてもらった。もう二人の主宰者?のうちよく書き込みをする人も知っていたので時々覗いたりしていた。いつか、青山ブックセンターの倒産時にはじめて書き込みをした。出版業界的には、まぁ事件だったので出版社の営業部の人からも書き込みがあったりして、ちょっと違うんじゃないかななどとコメント的なものを初めて書いた。反応してくれた営業マン氏の会社のブログなどを知る。そこの社長兼編集長もちょっとした顔見知りだったりして、遠い世界が近くに感じられる体験もした。

●;ある時、よく書き込みをする人からこんな提起があった。
>この十年でメール、掲示板、ブログとやってきて、たぶん多くの人が日本語の使い方が
>変化している。
>全般的にネット言葉って、ゆるい感じがする。焦点が定まっていないぼんやりした潜在
>的な読み手にむけて言葉を送ることの、ふらふらした感じとでもいうか。逆に、印刷
>媒体に書くのと似たような文体でネットに書くと、これはこれで往々にしてストライ
>クゾーンから外れてしまう感じもある。

 この人は、いつも分析的である。<ゆるい感じ>というのは言い得て妙である。

>ネット言葉って、話し言葉と書き言葉の中間みたいなものだと指摘されることが多いけど、
>話し言葉は話者と聞き手が現在を共有しているわけですよね。対面であれ電話であれ。
>でもネットは、誰が読むかわからないし、いつ読まれるかもわからない。なのになぜ、
>こうして読んだり書いたりしているのか、あらためて不思議だなと思うわけです。

●;PCでのメールとケイタイメール、プログと伝達メディアが進化して来て、文体が変わったと語るほどの材料も仮説もない。「瞬間タカオカ」自体は自意識過剰の?生産物で当分いいや。瞬間的に感じ取ったことを書くだけが方法といえば方法。二三人の人にこのアドレスも教えたのは(全部若い女性)、いい線行っている女性だからで、もしかしたらたまには読んでくれているかなと甘えた部分がある。彼女らを読者にして書く方法というのは、壇上に上がってしゃべった時のやり方を踏襲している。長崎浩の『アジテーターの技術』(合同出版、増補版は情況出版)を意識している。まぁ、思考(というほどのものではない)の実験的なもので、そんなものを強制的に送りつけられたらたまったものではないだろう。<書き言葉>に近くなっているのは確かだ。だけど、スルドイ彼女らは「ケッ!」とつぶやき蹴飛ばしているだろうが、それはそれでいい。