● 貧すれば鈍する(3)

● 男にFAXを送りつけたが、音沙汰はない。昔で言えば「自己批判要求」というやつである。しばらくは接触はしてこないだろうが、これまでの経験ではほとぼりが冷めた頃に電話が掛かってくる。電話番号のボタンを押す時の彼の気持ちを推し量ると、私の気を惹く話を見つけたか、なんらかの優位性を持った時である。お人好しの私はなんども誘われたからと会う約束をする。
別に居丈高になっている訳ではないが、どこか<この男>を形象化したくなる。男に対する嫌悪感というしろものを昇化したい。<男>をどこかで見た。イエジイ・カワレロウィッチ監督のポーランド映画『影』の主人公だ。とてつもなく<イヤな奴>であり、怖い男だった。禿頭の俳優が演じたその<男>は、社会主義政権の権力者の影であることを周囲に暗示する。その根拠といえば「権力者の力を背後に持っているらしい」というだけである。権力者に近い男を周囲はおののく。その恐怖を利用して彼は政権への反対者を粛清するのに一役買う。平然とだ。だが、実は、彼はその権力を信じていない。そこが怖い。平気で味方を裏切る人間は、一体、何にロイヤリティを持つのか。妙に印象が残る映画の主人公と<彼>は似ている。

人間とは「人と間」と書き、間をつなぐ「と」で成立しているから「人間」なのだといった車谷長吉のエッセイを読んだことがある。『銭金について』(朝日新聞社・02年)の中だ。<どんな人にも、その人に独特の毒がある。それはその人間の味であり、
あくであり、いがらっぽさであり、面白みであり、思い上がりであり、
えらさであり、愚かさであり、哀しさであり、あんぽんたんぶりであり、
なつかしさであり、こだわりであり、奇癖であり、引け目であり、崇高
さであり、どうしようもなさであり、不可能性であり、あわれであり、
こわばりであり、<しこ>であり、蠍であり、蝮であり、「虫」であり、
「物の怪」であり、掛け替えのなさであり、骨の髄に刻印されたもの
であり>

映画の中の<イヤな奴>は、車谷の「人間分類」のなかに収まる。毒を持っていた。人間の味かねぇ。我が事を総括すれば、彼もこっちも《ビンボー》が出発点になっている。銭金の問題がお互いを<鈍く>していた。