● 「R25」の衝撃(1)

● JAGAT www.jagat.or.jp/のシンポジウム、午前中は永江朗氏と仲俣暁生氏(「本とコンピュータ」編集長)の対談であったが、その時間には行けずレジュメだけ手にした。ただ、「レジュメ」には対談のタイトルだけだった。二人で即興的にやろうとのことだったのか。『「R25」の衝撃』をしゃべったらしい。書店空間事情に詳しい永江氏の話は聞きたかった。

某日、昼食後、「タリーズ」に入る。雑誌(実は「R25」。表通りのカラオケ店前に積まれていた)と読みかけの本を抱えて珈琲を飲もうとしたら、隣の男性が「R25」を読んでいた。まさしく「R25男」である。「うーん、やはり読まれてるのかな」。この場合、<読む>ということばは適切ではない。<開いてる>とか<話題にしている>という「R25回路」が出来ているかどうかである。リクルート社のビジネス的な「成功」であり、新たなメディアの登場である。メディアが生まれる方に荷担したい。

いつか、地下鉄の駅構内に「R25」のラックを見かけたが、一冊も残っていなかった。「R25男」たちに持ち運ばれているのだろう。

夜、「わいがや;1」の終わった後、近くの店で懇親会の席で「R25」が話題になった。「いずれこんなものは無くなるさ」という人がいた。「価値の交換を伴っていない」という批判である。ええっ!旧いなぁ。「ぴあ」が登場した時、唐十郎が「びあはプア」と言ったようなものだ。‘知的な側’からの大衆批判である。唐の発言を読んだ時「何を言うか」と思った。その後の「状況劇場」の繁栄は<都市的なもの>に吸引され惹かれる都市遊歩的な浮遊する大衆が存在したからである。

R25」の出現は衝撃ではないが、絶対に考察の対象である。夜、「カラオケ店」の「R25」は一冊も残っていなかった。