● 江古田で

●池袋から江古田の大学へ。研究室を訪ねるのは3回目か。8月の暑い日にも来た。
今日は二人の教授を前にいささか挑発的になる。彼らが追求しようとしている本の企画性がイマイチだったからだ。コーディネートを引きうけたこっちにも責任ある。批評性がないのは困る。ナツメロや懐旧談も悪くはないけど、そんなものは自費出版の類だ。「何か」を表現として提出する時には自己顕示もあるが、その自己とは世の中に対するイチャモン、抗議であり、世の中にひっかき傷を作ってやるぞという意思がないものは「×」だ。その意思は欲望である。世界制覇である。社会-世界へ(自分の追求した)価値を告げたいという欲望である。
その価値が交換されるかどうかは、他者の視線である。市場で交換される-売れるものは、他者性があるかどうかだ。

要は「何をしたいんだ」である。しばし、討論。「現代史資料の映像篇」というコンセプトが生まれる。その走り、きっかけとして「60年代テレビ映像の再評価」をちゃんとやろうぜと三者合意する。

大衆酒場でビール。横に座ったショート・ピースのトダ教授の顔を見る。眉毛が濃い。改めてこういう顔の人だったのかと納得する。つまり、この日までは教授の顔を強く覚えられなかったのだ。記号的な存在だったのだ。自分の身体の中に入り込んでいなかったのだ。