●イメージ力

●土曜の朝、NHKの早朝インタビュー番組に日比野克彦が出ていた。長野県のある村に寄宿して芸大生らと村人と一緒になってワークショップを続けているらしい。途中から観たせいもあるが、そのかたちがなんなのかはよくわからない。単に村人たちとのふれ合いであるならば、温泉に癒しと称して出かける連中と変わりがない。色や形が問題だ。私らには<見えないもの>をある<かたち>作りあげるのが造形作家であろう。
なお、日比野克彦は「明後日新聞」というガリ版?新聞を発行している。彼の筆つがいだろう、金釘流の書体が刻印されて紙の上で踊っていた。それはそれで読んでみたい。あるいは見てみたい。

「なぜ、こういったことをやり続けるのか?」と三宅アナウンサーが問いかける。「喪われし共同体の残滓に《初原的なエネルギー》を発見する」という方法論は、いつも何かの時に出現する。挫折した時にだ。柳田國男の<常民>の発見もそうだし、岡本太郎は<沖縄>の縄文、谷川雁らは<炭坑夫>のアナーキズムであった。日比野の答は「まぁ、ふつう」であった。やはりエネルギー説のようだった。そういった考え方には組みしないけれど、日比野克彦が語った言葉が頭をかすめた。それは、《想いを馳せて、ふと我に返る。その繰り返しが大事》というようなフレーズであった。
《思いを馳せる》という言葉はいい。《好き!》でもいいのだが「ふと、我に返る」があってこそ。ズブズブの拝跪や憧れる対象へのむき出しの賛歌には気持ちが悪いものがある。他者性を欠くからである。「ふと、我に返る」ゆりもどし。精神の往還運動のようなものを日比野は語っていると思えた。我田引水ではあるが。