●村上龍の沢木耕太郎批判

●オリンピックの女子マラソンはなんだかんだといって最後まで観てしまった。特別に
 「野口がんばれ!」なんて声援は送らなかったが、ゴールの瞬間はホッとした。
翌日の朝日新聞沢木耕太郎の記事があり、ちょっとひっかかるものがあったけれど、
そのままにしておいたら、村上龍がさつそくメルマガで書いていた。

>「マルーシ通信」という沢木耕太郎アテネオリンピックレポートが載った。「見え
>ない敵」という見出しが付いたそのレポートは、女子マラソンで優勝した野口みずき
>入賞を果たした坂本直子土佐礼子の三人の選手が、「高橋尚子」という「見えない
>敵」と戦って勝った、というような内容のものだった。

>わたしは、いろいろな意味でそのレポートに異和感を持った。そして異和感の中でもっ
>とも大きかったのは「沢木耕太郎の文脈」とでも呼ぶべきものに対してだった。

>野口みずきの走りは、逆にそういった競技外の「ある種政治的な物語」を中和し消去
>するに足る見事なものだったのではないかと思う。スポーツは神聖で崇高でさわやか
>なものなのに政治や個別の人生の負の部分を見るべきではない、とわたしが思ってい
>るわけではない。ただ、スポーツは瞬間的にそういった政治や個別の人生の負の部分を
>ゼロにしてしまう強さと美しさを持っている。

● 村上の批評は「負の物語を無化する力」としてのスポーツという立脚点である。
>「高橋尚子代表選考洩れ」という事件をポジティブな形で「消費」することができ
>たのではないだろうか。市場にしっかりと組み入れられているスポーツが単にさわや
>かなものであるわけがないが、それでもアスリートたちの過酷な訓練と見事なパフォー
>マンスは、あるとき負の物語を無化する力を持つ。
                   
>沢木自身も朝日新聞も自覚していないだろうが、野口みずきの勝利に「高橋尚子
>見えない影」があった、というような不要な物語を必要とする文脈は、現実を見えに
>くくする。当然その文脈はスポーツ以外にも作用する。現実はスポーツのようなカタ
>ルシスを持ったものだけではなく、そのほとんどは深刻な対立をはらんだものばかり
>だ。沢木耕太郎のレポートに象徴される文脈は、結果としてそういった対立の現実も
>覆い隠す効果を持っている。     
 
>わたしはスポーツに物語を求めたくないし、物語を必要とする文脈への警戒を続け
>たいと考えている。

● 村上は「不要な物語」の批判をしている。
  「沢木の物語好き」は、下手をすると通俗的な安手なメロドラマにもなってしまう
  ところがある。(突然だが、大島渚の第一作「鳩を撃つ少年」を思い出した。メロ
  ドラマ批判の映画であった)。
  「長島ジャパン」とかとかの囃し立て方が不快だったのは、大衆に既成の物語を提
  供することで事足れりとするメディア側の怠惰を感じ取ったからである。メディア
  のメディアたる由縁は、<異化>と<距離化>である。対象へのベタベタの賛歌でもな
  く、不要な物語の強制でもない。