j●やはり疲れか

●土曜日、12時間以上眠る。身体の小さな異変は収まっている。やはり、もろもろの<疲れ>か。家人が日帰り旅行に出かけているので飯も勝手気まま。

夕方、近くの喫茶店に「週刊誌」を読みに行く。「週刊新潮」だったかに「曽我の宮」といった記事があり、読みたくなっていた。原本は読んでいないので確かなことは言えないが、M・フーコーの言葉らしい《身体は社会的制度の反映説》に従うと、二年前に降り立った時の彼女の表情とファッションは、「アジア的専制国家社会主義」の身体であった。テレビに映る彼女は少しずつ「見られている身体」になっている。それ以前は「視られている身体」だ。前者が<消費社会下の大衆>であれば、後者はの違いだ。比喩的に言えば、前者は「享受する女」であり、後者は「支配する男」だ。

週刊新潮」は、曽我さん一家を過剰に好待遇する官邸・外務省あたりの態度を描写していた。腫れ物に障るようにというのが適切である。記事は新聞記者のアルバイトであるから、一応は「事実」であろう。「曽我ひとみさん一家」を記号として扱かう政治の側の操作技術批判としては、「曽我の宮」という見出しの鋭さだけ。

●昨日の喫茶店でのある人との話しあいのさなかに感じたこと。
 ある編集者が、佐治晴夫という宇宙物理学者との対談本の「あとがき」で巧みに記している。
《私にとって「話す」とは「放す」ことであって。また「離す」ことである。また私にとって「知識」というものは、貯めるものであってはならず、通すものなのだ。いつもいつも放逐し、解放し、ディスチャージしておきたい。これが私の編集哲学である》(松岡正剛