●対抗意識と嫉妬

●対抗意識、つまりライバル心との違いはなんだろう。「権力的な考え」=その観念が「敵」と記したが、
ムキになる心根には(どうも)その観念の持ち主の振るまいに対する嫉妬心が働いているような気がする。そんな反省を強いられた一日であった。

ある会議の行く末が気になっていたのか、昼飯をそそくさとかき込んだ後も、そのことが気になっていた。夕方からの別の会議も気になっていて、その間に約束した打ち合わせの時間を間違えてしまった。1時間もである。約束した場所に行ってみると相手がなかなか来ない。多少はルーズなところがある人かなと思ったりしていたが、30分も待っていると人目も気になって「手帖」を覗き込む。「エエッ!」、なんと1時間も勘違いをしていた。あわてて携帯で電話する。

暑い日、1時間近くも待ってその人は帰っていった。帰路の電車の中でのその人の心情を思うと、実に実に申し訳ない。電話口でひたすら謝る。それしかない。しかもこちらが無理にお願いして会って貰おうとした件だ。冷や汗どころか恥ずかしさが吹き出る。暑さも忘れた。

午前中の会議のことが頭を支配していたのかなと思う。さっさと忘れてもいいような話かもしれない。ある人間が会議の雰囲気を壊すような発言をした。私に向かってではない。たしかにふだんも「権力的な考え」に対抗することを心性として持っている人物だけに私と波長が合うところがある。しかし、彼のこの時の発言は対抗意識=反権力意識とがなせる業というよりは、ある恨みが根底にあるように感じられた。その恨みとは、彼のイメージ通りに動かない他者が放つ言辞、言葉の切れ端に対してであったようだ。

「イメージ通りに他者は動かない」のが、通例であるというのが他者との関係の原理ではないか。他者は自分の意のままにならないということだ。彼もまた彼と同じようにある観念に支配されている。その観念は暴力的に粉砕すればいいのに(私ならそうするが)、ぐっと籠もってしまっている。そのマグマが数日か一週間経って爆発したわけだ。そのことを知らない回りは驚いた。少しは事情を知っていた私が<不快>に思ったわけだ。この不快感の依って立つものはなんだろうとと、そのあたりにかかずりあっていて「約束の時間」をうっかりミスしたわけだ。

相手を他者を包み込むような意識が機能しないのは、他者性をとりこむことよりも、他者を対立物として(現象的にはライバル心)しか見えないことではないか。そう思弁する半日であった。