正月の葬儀(3)

●;今週は多忙を極めた。見知らぬ人と話をすることが三日続く。疲れたというよりもウケようと思って「演劇性」に事借りてつまらぬ「演技」をしでかしたことの恥ずかしさが募る。街でバッタリ会ったとしてもプイと顔を背けるだろう。
ふだん、行ったこともないコンサート会場で人と人を繋ぐ約束あるも、すれ違い。別の会合とバツティングしていたのだ。二次会にはタクシーを飛ばす。ある会社のためのプレ打ち合わせ(シナリオ通り、うまく行くかな?)とか、「ある企画の構成案」を作る約束が頭をかすめている。そんなことが重なって、頭と気分があっちこっちと漂流していたのだが、「ある葬儀」に出られなかったことの「申し訳なさ気分」の残滓感がのしかっていて、歩きながら言い訳まじりの電話を携帯で。一人は、その会社に潜り込んだ時の事業責任者(=受け入れを認めてくれた人)。もう一人は、その会社で親切にいろいろ教えてくれた男(ワープロや、PCの使い方も)。もう一人はその会社の新卒一期生の女性。その会社ではある意味で「倫理的な存在」という点で<中心>であった人(ずっと、そのように見ていた)。亡くなった社長のマネジメント面での補佐役の人だった(と思われる)。電話をかけたら会議中であった。トップがいきなり(つまりある意味では暴力的に理不尽に)去った後の処理やら体制なりを思案しなければいけない頃だから、煩わしい私的な電話は迷惑というもの。「告別式に出ることが出来ませんで、失礼しました」と、電話に出た人に申し述べる。「申し訳なさ」の感情は、亡くなった人へというよりは、一時、世話になったその会社を構成していた社員(たち)に対してである。「共同性」というものがあるならば、彼らとの関係意識である。怠って遊んでばかりいた連中との「親和性」もある。葬儀には彼らが来ていたそうな。
●;その会社での「受け入れ」が決まった時、報告がてら尊敬するある作家に「転職先」のことなど話をしたら「助っ人に行くのですな」と言われた。平手御酒かよ。<助っ人>という言葉が極めて倫理的な意味合いに感じられ、以降、<行動規範のようなもの>になっていた(実体は別として)。